きつねこブログ

こんにちは。ヒキニート時代にこのブログを開設しました。のんびり働いて、適当に生きる

反出生主義者の視点から殺人などを解釈してみるとこうなる。

昨日ちらっと見たニュースで園児に車が突っ込んで二人死んでしまったというニュースを見かけたので、それでふと思った。

www.huffingtonpost.jp

テレビはそもそも嫌いで普段あまり見ないんだけど、母ちゃんがリビングでテレビを見ている時に目に映ったから少し見てしまった。

 

 

あんまり、この事故については詳しく知らないけど、園児二人が亡くなってしまい、それについてその園児の園長先生が会見を開いていた様子だった。

そもそも論として、今回については保育園側には落ち度など全くないのに、記者会見を見ていると保育園側が責められているようで見ていてとても心が痛くなった。

なぜ、保育園側が記者会見を開かないといけなかったのか?

なぜ、園長が謝らなければならなかったのか?

園長が見世物にされているようでメディアも腐ってんなって心底感じた。

 

前置きはここまでで、反出生主義者の視点から殺人を解釈してみる

まぁ、今回書いていくのはこのニュースとはそこまで関係ない。

普段から殺人についてのニュースなどを見て思っている気持ちについて書いていく。

 

殺人の加害者だけを責めるというのは、問題の深層を見れていない

まず1から説明するとして殺人という行為には、加害者と被害者が必ずだけどいるわけだ。

世間では加害者に対しては、ボロカスに叩き再起不能と言われる状態にまで精神的に立場的に追い詰める。

被害者にとっては当たり前の反応だけど、可哀そうなどの同情の念が注がれるからここは大して問題ではない。

社会の常識、風潮では当たり前の反応だけど、これについて僕は違うなと思う。

個人的期には加害者にも同情の余地があるのではと思ってしまうのだ。

その理由についてここから書いていく。

 

そもそも論として生まれてきたら加害者・被害者どちらにもなってしまう可能性がある

人は意味は分からないけど、産まれてくる。意味は分からないけど。

しかし、「人を殺そう」、「人に殺されよう」などと胸糞悪い、もしくわ変態極まりない感情をもって生まれてくる人間はいないはずなのである。

おそらく、今回の加害者も被害者もこのような悲惨な惨状は作りたくなかったはずだ。

被害者は殺されたくなかっただろうし、加害者は殺したくなかったと思う。そして、それに巻き込まれた園長も不運としか言いようがない。

そもそもだけど、交通事故なんてどれだけ気を付けていても起きてしまう時は起きてしまう。

運転手がどれだけ気を付けていても歩行者が飛び出して来たらどうしようもないし、その逆も然りだ。

起きてしまうときは起きてしまうのだ。

轢こうと思わないで轢く人の方が圧倒的多数だろう。

僕も車は運転するが、死ぬまで人を轢かずに人生を終えるというのを保証など絶対にできない。

もしかして、人を轢いてしまうかもしれないし、逆に轢かれて殺されるかもしれない。

ただ、分かっているのは、この世界は不確実だという所だけ。絶対はない。

 

要は、この地球という世界では選んでもないのに、加害者にも被害者にもなりうる。

どちらにもなりたくないにの。

苦しみたくない。苦しめたくない。

ただ不確実にその役が回ってくる。

また、殺人だってそうだ。

人を本気で殺してやりたいなどと心の底から思ってやった人の方が少ないはずなのである。

何かの理由で追い詰められて人を殺してしまったケースも多々あるんではなかろうか。

追い詰められたら殺しをしても良いというわけではない。しかし、そのようなケースが起きてしまう世界というのは変わりようのない客観的ファクトだ。

ある意味、生粋の人殺しなんてこの世界にほぼ存在しない。

この複雑怪奇で理不尽な世界で精神を曲げに曲げられ、修正も効かないほど曲げられた人間のどこを責められるというのであろうか?

このように思うと、加害者も被害者と同じように被害者なのだ。

 

 

犯人は当事者達ではない。真の加害者は産みの親ではないだろうか

犯人捜しはできればしたくない。僕だって誰も責めたくはない。

でも、僕はこの加害者も被害者も可愛そうな気がしてならない。

どちらも殺したくなかっただろうし、殺されたくもなかっただろうから。

ただ、この殺しが起きてしまうこの世界に産み落とされたこの点だけが残念でならない。

はっきり言って反出生主義の考え方は曲がっているかもしれないけど、こういう思想なのである。

そもそも論として生まれてこなければ誰も外れくじを引かずに済むわけだ

僕だって子持ちを批判せずにこの世界が平和になってほしい。苦しみがなくなってほしい。

でも、何もかもの問題が究極ここにたどり着くんだ。

結局一つ一つ順序を追って考えていくと、この「生まれてしまったから苦しんでいる」という一つの結論にたどり着く。

子持ちたちに言いたいのは、この世界に産まれたら、選んでもないのに加害者にも被害者にもなってしまう可能性が理不尽だが存在しているという点だ。

これでも結構軽めに言っているが、極論この世界は子供を産むか産まないかの2択のように加害者か被害者のどちらかしか存在しえないから残酷だと言っているのだ。

そもそも論からして、この地球という世界は根元からシステムがぶっ壊れている。

崩壊しているが故にどれだけ優れた思想や制度、サービス、福祉を持ってしても悲惨な惨状をなくすというのは不可能な話なのだ。

だからこのブログを通じて発信し続けているのだ。

子供を産んでも良いものなんて何一つないよ。って。

それはただの自分の欲を刺激しているだけですよ。って。

運的な側面が多い残酷な世界に子供を産み落とすの?って。

子供を産むという行為がどれだけ、周りに悲劇を生んでいるのか早く自覚した方が良い。

今回のニュースでも加害者、被害者、保育園の園長(保育園のイメージ)、加害者の親、被害者の親、それに関係する様々な人々。誰一人幸せにならず不幸になった。

グロテスクな惨状が多くの人を巻き込む。

誰もこんな展開望んでいなかった。

誰も苦しみたくなかった。

誰も苦しめたくなかった。

このニュースも生まれてこなければ誰も苦しまずに済んだのだから・・