【提案】 僕ならこのように安楽死制度を作る
こんにちは。きつねこです。
3か月ぶりにふとブログ更新しようかなという感じで書き始めます。
まぁ、生存報告と言う意味でも更新です。
最近はまるっきりブログのアクセス数が減ってしまいましたが、このブログに来てくれる方が「きつねこ」などという検索ワードで来てくれる方も多くて感謝の限りです。
前置きが長くなる悪い癖はここで止めてタイトルについて書いていこうと思います。
- 確かに、反出生主義は極論かもしれない。
- そもそも論としての「生きたい権利」と「死にたい権利」どちらも尊重すべき。
- 僕が勝手に提案。安楽死はこう作ろう。
- ①一定の年齢以上の方は無条件で安楽死可能
- 重度の障害の場合は、ポイント制を採用してみれはどうか?
- お金払えばOK
- まとめ 生存報告の為に妄想を書き留めた。
確かに、反出生主義は極論かもしれない。
反出生主義について2年前から触れてきた当ブログですが、最近の自分の幸福度は高く、特にネガティブにならず反出生主義について思考する頻度は減りました。
なんならほぼ考えずに生活しているほどです。
しかし、反出生主義が間違いなどとも思っていません。
むしろ、僕の人生の「軸」の思想と言っても過言ではなく、これをきっかけに鬱から立ち直れた感覚すらあります。
しかしながら、反出生主義は極論だよな~と感じてしまう部分もあるっちゃあります。
この世には、強がりか無理やりポジティブシンキングか分かりませんが、心の底から「生まれてきて良かった!」などと言う人種もいます。
別に価値感や考え方は人それぞれですし、幸福度など所詮は主観であり、「生まれてきて良かった!」などと言う人を軽蔑する気はさらさらございません。
むしろ、そのようにこの苦痛に溢れかえった世界をそのような主観から眺められる観点をわたくし個人としても学ばないと感じている所存でございます。
まぁ、そのように思う真偽は分かりませんが、このように感じる方の感情を踏みにじるという点では反出生主義は極論であり、正論で叩いているなと感じる部分もあります。
まぁ、僕個人としては、個人的経験もそうですが、釈迦を筆頭にこの世界は「苦」であるという認識に疑いを持たない人種であり、反出生主義はすべてを解決すると疑いの念を持たないわけですが、生きたい人もいる以上、反出生主義も少し危険な思想なのかな?とも思います。
ですが、出生主義という思想はありませんが、子供の許可もなしに、人生と言う長い艱難辛苦、修行の場に強制的に連れてきて、強制的に「シャカイ」に参加させるというのは他者への感情移入が未熟ですし、もしもその命が取り返しのつかない状況に陥った場合、その責任の取りようのなさと言ったら「出生主義」という人種はどうしても非道とわたしは感じてしまいます。
ここでわたしは言いたいのですが、出生主義を「生きたい権利」、反出生主義を「死にたい権利」などと定義して次の話に繋げていきたいと思います。
勿論、反出生主義=死にたい。ではありませんが、多くの反出生主義者はこの世の災い・苦しみの部分(病気、犯罪、自然災害、事故、)などに焦点を合わせている方が多く、ある程度このように認識しても良いと思います。
そもそも論としての「生きたい権利」と「死にたい権利」どちらも尊重すべき。
この世界は「生きたい権利」の尊重で溢れています。
出産と言う行為を筆頭に、何か病気にかかれば病院で治療してくれます。薬も出してくれます。精神科やカウンセラーもいます。
どれだけ障害や毒親要素のある人間でも子供は産めますからね。
戦争で負傷した人間でさえも慈悲的観点からなのか?経済活動の駒を失いたくないからなのか?治療してくれます。
とにかく言いたいのは、「生きたい権利」は要求するにもしないにもとてつもないレベルで手厚く対応してくれるわけです。
しかし、「死にたい権利」についてはどうでしょうか?
ネットで「死にたい」と検索すれば自殺予防コールセンターのサイトがトップに来ます。
死にたい人間を生かせようとするサイトの時点で検索者の意図から大きく外れていますよね。それも国家が運営している国の手下です。
あくまでその「死にたい」と検索した方は死にたいのです。
感情移入すれば、出来るだけ苦しまず自殺失敗のリスクを低い自殺法などを知りたいのでしょう。
他にも、SNSなどで死にたいと呟く方はごまんといます。
この世界で死にたい人間が大勢いるということはある一定の年齢に達した大人であれば周知の話だと思います。
ここでわたしは思うのですが、なぜこの世界では「生きたい権利」狂ったように尊重され「死にたい権利」は狂ったように軽蔑されるのでしょうか?
そもそもこの2つに優劣はないはずです。
仮に優劣があるのであれば、理性や慈しみを持つはずの人間が本能だけで行動する動物のような弱肉強食の世界を肯定することになりますし、道徳的、倫理的に考えるのであればこの2つの権利はどちらも同じくらい尊重されるべきだと思います。
そもそもこの2つの権利が同じくらいに尊重されていない世界では「戦争に反対するものは非国民だ!そんな奴は認めん」などと言うような例えは過激ですが、一種のファシズムにも思えてしまうのです。
なぜ「生きる権利」の方が尊いと言えるのでしょうか?根拠は?理由は?意味は?
そのような観点から「死ぬ権利」は同等に尊重され、それを達成できる安楽死は必須だと考えています。
そもそも論として、例えばあなたの友達が「死にたい。死ぬのがわたしに取って一番幸福になれるんだ!」と言っていたら、無理やり生かせたいですか?ていうか、そんなに生きるのに苦しんでいる人に苦しみながら生きてほしいですか?それはあなた個人の感情ですよね。
多少は説得するかもしれませんが、それでも変わらなかったら、「本当にこの人にとって死ぬのは一番の幸福かもしれない」と思うはずです。
そもそもその友人が死んで苦しみから逃れられるのであればあなたは喜んであげるべきです。
結局の話、安楽死はその本人の選択の意志ですし、本人も望んで選択していているのだからそこ決定権は誰も侵害できないはずです。
スイスなどは安楽死があり「死ぬ権利」という考え方が多少は尊重されていますが、もっと尊重されても良いと思います。
勿論、安楽死が出来ても問題は出てくるだろうし、僕個人の予想だと利用者がかなり多数になると思うので、次の目次からは僕個人が考える安楽死像を書いていこうと思います。
まぁ、勝手な僕の妄想と捉えてもらえれば結構です。
でも本当にこうなればいいなぁ・・
僕が勝手に提案。安楽死はこう作ろう。
さぁ、始まりました!というノリは苦手なので早速「安楽死はこう作れば問題が少ないんじゃないか?」という妄想コーナーだと思ってください。
①一定の年齢以上の方は無条件で安楽死可能
一定の年齢を超えた方は安楽死を利用しても良いんじゃないか?と思ったりもします。
なんなら、65歳以上は利用可能とかで良い。
そうしてくれれば、僕も65歳くらいまで終わりが見えているから生きる気力が湧いてくる。
やっぱり、思うんだけど、死ねる年齢を決められるってのはドデカいメリットだと思う。
人間はなぜ不安を感じるかって、一つに何歳で死ぬか分からないからなんだよね。
仮に明日死ねるって知ってたら不安なんてどうでも良くて、好きなことしまくるのは目に見えてるよね。
要は、人は何歳で死ぬか分からないから、貯金もするし、努力もするし、健康にも気を遣うし、付き合う人も吟味する。
結局、この不安が大半でその不安を取り除いてくれる装置があれば、幸福感もアップする。
さらに、国としてもメリットで、正直高齢者になるほど経済活動の駒としては使い物にならなくなってくる。
何なら、病気などで活動できない人も増え、最悪、何も生産性のない人間の介護でコストを消費する羽目になる。
所詮、介護など、される方もする方も文明の進歩と言う点では生産的ではなく、むしろ、国家の強化において足枷分野である。
勿論、介護者などを軽蔑しているわけでなく、しかし国際競争において介護と言う分野は生産的かと言うと少し疑問符が付く。
実際に介護されている高齢者に死にたいという感情を持っている方も多いはずであり、僕の祖母もそうだった。
高齢者を労わるという観点から見ても、安楽死はさせてあげるべきだし、そうすることで税金の節約、介護士の負担軽減などに繋げられるメリットしかない。
少子高齢化は安楽死で解決する。
重度の障害の場合は、ポイント制を採用してみれはどうか?
一定の年数にも達していないけど、若くから人生に絶望し、生きる気力が湧かない者に対してはどう対応すべきだろうか?
僕個人としては、ポイント制を採用すれば良いんじゃないかと考える。
まぁ、シンプルに言うと障碍者手帳みたいな感じだ。
いくつかの質問や、医者の専門的な面談などを踏まえてその人の人生においての深刻度をポイント化する。
ポイントが基準より上であれば安楽死OKというシステム。
まぁ、人生の幸福感や病気や障害の深刻度をポイント化していき、安楽死を受けるに値するか?という制度。
まぁ、これをやっちゃうと安楽死を受けたいがためにわざと人生を悪い方向に持っ行こうとする人も大勢いるだろうから難しいと思うけどね。
お金払えばOK
最後はお金払えばOK。至ってシンプル。
金で解決すんのかよ!!という意見がありそうだけど、これにも反論を書いていく。
ていうか、なぜ国がここまで子供産め産めいうのかと言うと、結局のところ、働いてもらう駒が欲しいだけなのである。
要するに経済を回すために駒。
頭の良し悪しは二の次で、四の五の言わず労働奴隷として黙って社会の歯車になってもらい頭数が欲しいだけ。
要するに国が考える人とは金なわけだ。
とりあえず、お前らの幸福度なんてどうでも良いから働いて経済回してくれ。
ブラック企業や過労死をある程度黙認しているのもこういうわけです。
要するに、お金を稼いだ人は国からすればお役御免なわけだ。
いや、よく考えてみろ。
安楽死にお金が必要になれば、今まで死にたい死にたいと人生を無為に過ごしてきた人が「死ぬ」という目的に目を輝かせてせっせと経済活動に励むのではないか?
国としても国家をレベルアップしてくれるわけだ。
死んでいた兵士が蘇るわけだ。
安楽死と言う名の死者蘇生
なんということでしょう・・
安楽死をする人も国に貢献できたと胸をはって死ねるんではなかろうか。
安楽死ができることで前向きに人生を生きられるなんで素晴らしいではないか。
まとめ 生存報告の為に妄想を書き留めた。
最初は前前提の話を書いて、後半は僕の勝手な妄想ワールド。
こういう安楽死制度があれば前向きに生きられるな~。という妄想。でもこうなってほしい。
まぁ、とりあえず、反出生主義は正しいけど、極論の部分もあるから、じゃあ安楽死でという中間的な役目を果たすシステム作って!って話。
「生きる権利」も「死ぬ権利」もどちらも尊重されれば誰も不幸にならず幸せな世界ができるじゃん!って話。
そもそも文明の発達は”他者へのマウント”でもなく””奪い合い世界の助長”でもない。
本来の目的は”人間の幸福の追求””であり、安楽死を作れる段階まで人類は進歩したんだから、じゃあそれを行使しろよ!って話。
とりあえず、僕は出生主義者か反出生主義の2択であるならば反出生主義の肩を持つけど、そもそも安楽死が出来ればどちらも幸せになるのにな~って思っただけ。
とりあえず、定期的に生存報告だけはしていこうかな~て思う。
バイバイ~