日本の精神科医はゴミ医者ばかりだと感じてる
個人的主観で書いていくけど、日本の精神科医はゴミ医者ばかりだと思う。
理由をこれから書いていく。
僕は、高校中退以来、4つの精神科医に通った経験がある。
そしてカウンセラーも4人の人と対話してもらった。
一つ目の精神科医は大学の附属病院。
初めて行く精神科医だった。
そこでは薬などは出されなかったが、週に1回のカウンセラーを勧められた。
週1回のカウンセラーに通うことになった。
しかし、カウンセリングと言っても、悩みの話を掘り出して解決策などを探るのではなく、趣味の話や最近どのように過ごしているか、など精神病とはほとんど関係ないことを話していた。
とにかく、カウンセラーは悩みを解決するというより「1時間なんでもいいから話せばいいんだろ」的な態度だったのはよく覚えている。
または、問題を解決したいけど、肝心の問題を解決する能力がなかったのか・・
その時は、カウンセリングとはこんなものなんだと信じ込んでいたけど、流石に1年くらい通って病状の進展がなかったのでその精神科医は通うのを一方的に辞めた。
2つ目の精神科医に通いだした。
しかし、そこはカウンセリングもなく、クスリもなく、ただ10分喋って、はいおしまいって感じだった。
それに、その10分も親身ではなく、適当に話を済まされ、帰されるといった感じ。
精神科医というのは患者と医師の心の寄り添いが大切なのにその精神科医はそういうものがほとんど見えなかった。
流石に、そこの医師の無関心さに魅力を感じず、2か月で通院を辞めた。
それでもその精神科医は繁盛していて患者が待合室でたくさんいた。
「あ・・こんな不愛想な精神科医でも患者は来るんだ・・」と感じつつ
さらに病んで苦しんでいる人の多さに日本の闇を感じた。
日本には病んでいる人間であふれかえっている。
3つめの精神科医。
3つ目の精神科医はネットでも評判でかなり有名な精神科医だった。
なぜ有名だったのかと言うと、そこの医者は大学での講演や授業など幅広く活動していたのでそういったことで有名になったようだった。
でも、有名だからと言って医者として有能とは限らない。
ここの精神科医は2つ目の精神科医よりははるかにマシではあったけど、やはり話をしても話がかみ合わないことも多かった。
それに、ここの精神科医でカウンセリングも2週間に1回受けていたけど、ここのカウンセリングも悩みの相談はほとんどなく、結果的に1時間雑談で時間を潰しに行っていただけだった。
結果的にこの精神科医は2年間も通った。
なぜ意味のないカウンセリングを2年間も通ったのかと言えば、単純に1回の診察が格安だったからだ。
1回で1300円。
格安である。
格安が故に意味のないカウンセリングでも行かないよりかはマシかということで2年間も通ってしまった。少し後悔している。
結局、2年間くらいここの精神科医に通ったけど、ほとんど良い方向に進むことはなく、通っても意味がないということを感じ通院を辞めた。
4つ目の精神科医は現在通院している精神科医だ。
4つ精神科医を見てきたけど、ここの医者が一番患者の親身になってくれて、相談もしやすく耳を傾けてくれる良い人だった。
でも、人は良いのだけど、治療法には少し疑問があって、かなり薬に頼った治療を進めていくし、この前は鬱で頑張るのがしんどいという悩みを相談しに行ったら、「頑張れ」という滅茶苦茶な精神論のアドバイスをしてきた。
頑張ることに疲れた人に頑張れってアタマオカシクナイ?モウチョットカンガエテアドバイスシテ。
まぁ、薬は効果あるのかわからないし、アドバイスも時々耳を疑いたくなるけど、人間性自体は今までの医者の中で一番いい人なのでとりあえずこれからも通院してみる。
まぁ、言いたいことは、日本の精神治療は効果があるのか分からないほど微妙だし、
医者の人間性も疑うような人ばかり。
病んでる人が多いから多少、適当に診察しても患者は来て儲かるのかもしれないけど、はっきり言って、精神科医に一番大切な要素は医者の人間性なんだよね。
医者はどれだけ、患者に寄り添えるかどうかが大切なんだよ。
医者はどれだけ、患者に耳を傾けられるかなんだよ。
これを理解できてない精神科医の医者が多いように感じた。
とにかく、日本の精神科医の医者はゴミばっかりだなと、精神科医に8年間通っているニートのワイは感じた。
日本の精神科医は信用したらいかんぜよ。
しんどい
しんどい。
特に、誰かに傷つけられたり、悪口を言われたり、へこむことがあったとかそういったわけじゃないけど、なぜかしんどい。
ていうか
呼吸しているだけでしんどい。一日中休みなわけだけどしんどい。
理由は分からない。
とりあえずしんどい。しんどいという気持ちがとにかく襲ってくる。
あれ?おかしいな?人生ってこんなにしんどかったっけ?
生きるのってこんなにしんどかたっけ?
おかしい。おかしい。
確か、人生って楽しいとか素晴らしいって聞かされて洗脳されてきたから、こんなに地獄だとは思わなかったですわ。
年齢を重ねるたびにどんどんしんどいっていう感情が心を支配するんですわ。
幼稚園児の頃はしんどいなんて感情は持ってなかったと思うんだけど。
小学生の時もしんどいと思っても一日に1回か2回。
それが中学、高校と年齢を重ねるごとにどんどんしんどいと感じる機会が増えて行った。
もう、今では3秒に1回はしんどいっていう感情が襲ってくる末期ぶりだ。
心の中はしんどいで埋め尽くされている。
わけもわからないけど、生きてることがしんどいのでしんどい気持ちをぶちまけたい一心で書いてみた。
ちなみに、ここまでしんどいって16回書いてる。
とにかくしんどい。
死にたいけど死ねない。しんどい。
子供を作る奴は死刑で良いと思う(反出生主義の叫び)
子供を作る奴は死刑で良いと思う。
うん。書いてる自分もやばいこと書いてるなって自覚してる。
「こいつ何言ってんだ?」
「やばいな。」
「脳みそいかれてんな。」
「こいつ死ねよ。」
など様々な誹謗中傷、人格否定の声が届くだろう。
しかし、覚悟は承知の上だ。
様々な非難、批判を承知覚悟で書いていく次第である。
この世は地獄。出産は地獄に命を引き釣り込む鬼畜の所業だ。
この世は地獄。
これは、毎回このブログに書きすぎていて、よく拝見してくれている人ならご存知だろうけど、改めて言う。
この世は地獄だ。
釈迦が生きるとは、生老病死と言ったように、人間が生きるというのは苦が絶対つきものである。
老い、病、死、これは誰もが避けられない運命だし、生、というのも生きていくうえで様々な不幸が起きる。
生きる=苦。
これは切っても切り離せない生きる上での真理だと思う。
生きる上で苦を感じない人は、釈迦のように悟りの境地に達した者か、どうしようもなく頭がお花畑な奴と思ってもらえたらいい。
この世は紛れもない地獄だ。
これをごまかしている人間は現実を直視できていないし、この世を天国と思いたい現実逃避でしかない。
そして、そんなこの世を天国だと思い込んでいる奴らが知らず知らずの内にこの世の地獄作りにせっせと加担しているとも気づかないで。
そして、こんな地獄に新しい命を連れてくる出産という行為は紛れもない鬼の所業なのである。
子供は同意なしで強制的に地獄に連れて来られるのだ。これを鬼の所業と言わずして何というのか。
そして、産まれてきた命はこの地獄で様々な地獄を経験する羽目になる。
そして、そんな子供を見て、親が心配し、子供を心配するあまり親自身が悩む羽目になる。
なんと、滑稽な光景だろうか。
子供を産まなければそもそも子供の心配をしなくて済み、親自身も悩まずに済んだのに。
出産という行為で新たに悩みを種を増やすなんて愚かにもほどがある。
幸せを願って行った行為が元で家族みなが不幸になるという皮肉な惨状。
この世が地獄であるという認識の欠如、
セックスの快楽、
結婚したら子供をもつべきだという世間の価値観、世間の流れ、
子の幸せの気持ちを考える想像力、
未来に対しての浅はかなまでの楽観主義、
すべてに負けた結果が出産という行為になる。
この世を地獄にしているのは他ならず、人間なのである。人間そのものが鬼なのだ。
この世は地獄と言うけれど、紛れもなくこの世を地獄にしているのは人間そのものであると思う。
そもそもだけど、この世に生まれてきたら、加害者になるか被害者になるかのどちらかでしかない。
またはそのどちらも経験するのが人生というものである。
例えば、「富」という一つの話に絞って解説しようと思う。
そもそも富というのは有限だ。誰かが金持ちになれば、誰かが貧困に陥る。
言ってみれば、富を独占する側の者は世間の人々から搾取しているという意味で加害者になる。
逆に、搾取されている貧困側の人間は被害者なのである。
これは「富」だけの話に限るわけではなく、競争がある以上ありとあらゆる場面で出てくる。
勉強でも、勉強が出来る奴は良い大学にはいり、勉強が出来るということで優越感に浸ることができる。
逆に、勉強ができない奴は社会から居場所をなくし、勉強ができないという劣等感に苛まれる。
勉強が出来る奴は加害者で、勉強ができない奴は被害者。
この世は加害者側に立たなければ社会の居場所を確保できない構造になっていて、なんとも残酷で人間同士で殺し合いの様相を呈しているのがこの世なのである。
そういう意味から、僕はこの世で加害者にも被害者にもなりたくなかったから産んでほしくなかった。
人を傷つけたくないし、傷つけられたくもない。
生きていくというのは、仕方なく、人を傷つけ傷つけられという不毛な戦いを続けるだけの消耗戦なのだ。
地獄とは人間がつくりだしているわけだ。
人間は地獄作りが先天的に、天才的に上手いらしく、これはもう政治とか制度とかサービスとかでどうにかなる問題ではない。
人間は鬼そのものなのだ。
天国を作る方法は人類が滅びればいいのである。
出産=殺人である
またへんなこと言ってると思ってくれたら良い。
でもこれも本気で思ってる。
殺人というのは、なぜいけないかというと、他人の許可なしに人生を奪い、苦痛を伴わせるから逮捕され処罰されるのである。
これはけっこう、出産と似ている。
出産も、子供の許可なしに、人生をスタートさせられ、子供に苦痛を伴わせるという点では非常に類似している。
いや、出産は殺人以上かもしれない。
殺人の苦しみなんて、一瞬だ。
長く、苦しみながら死んでも10分くらいで死に至るだろう。
では、出産はどうか。
平均寿命80年という長い長い、人生という艱難辛苦を経験し、最後には病で苦しみながら死ぬ。
身内の話だけど、がんで叔母が死んだとき、麻酔を打つことができず、1年以上激痛と闘いながら死んでいった。
「こんな思いするなら死にたい。殺してくれ」と何度か訴えていた記憶がまだある。
本当に壮絶だった。
あの1年は叔母にとって地獄を超える地獄であったと思う。
そもそも叔母も生まれてこなければ、そんな地獄を経験せずに済んだのだ。
すべては、生まれた時からが過ちの始まりだったのだ。産声を上げた瞬間から苦は始まっていたのだ。
最後にあのような苦しんで死ぬ姿を見るととてもじゃないけど、新しい命なんて作ろうと思わない。
個人的には、出産は殺人よりも惨いかもしれないと思っている。
そのような理由から、子供を作った人間は死刑でも良いんじゃないかと思ってる。
「子供産んだ人間は死刑だったら人類滅亡するじゃないか。」
という意見があるが、何度も言わせんな。
人類なんて滅びればいい
まとめ
まぁ、かなりえげつなくてやばいことを書いてるなと自分なが承知はしている。
流石に、死刑は言い過ぎたかなと自分でも思っている。
でも、これくらい言わないと、軽々しく子供を作ってほしくないという気持ちからこういうタイトルで書かせてもらった。
子供を作ろうと思っている人は並々ならぬ覚悟を持ってほしいと思う。
これで、間違いなく、子持ちの親と、これから子供を作ろうとしている人間には嫌われたし、敵に回ったかもしれないと思っている。
それでもこれは、書かなければいけないという使命感みたいなものがあった。
とにかく、命を軽く見ないでほしい。
世間の価値観、軽はずみな行動、楽観的な考え、
どれもゴミみたいなもんだ。
そんな軽はずみな行動で子供を地獄に連れてくる奴こそ地獄に落ちればいい。
子供を産む親はこの世の本質を理解していない。(反出生主義者の叫び)
なんで、子供を産もうという行為に踏み切るのか僕は分からない。
・大好きな人との子供が純粋に欲しいからか?
・単純に子供をかわいいと思っているからか?
・子供を産めば自分が社会的に立派な人間に見られると思ったからなのか?
・単に、セックスが気持ちよくて子供ができてしまったからなのか?
・自分の老後を見させるためなのか?
・自分がかなえられなかった目標、夢を子供にかなえさせたいからなのか?
・子供を産み、幸せな家庭を気づくことが立派な大人のすることなどのように、社会に洗脳されてしまっているからなのか?
・・・・
理由は人それぞれだろう。
子供を作る理由は人それぞれだ。
しかし、どんな理由があれ、僕は言いたい。
子供を産む人間なんて馬鹿だと思う。
結局は、どんな理由も親のエゴ
冒頭で、子供を産む理由を羅列していったが、結局は親のエゴなのである。
一つ一つ返答していこう。
・大好きな人との子供 が純粋に欲しい。
大好きな人と一緒にいることは素晴らしいことだ。
結婚して末永く幸せな夫婦生活を営むと良い。
だがしかし、それとこれとは別の問題で、好きな人だからと言って子供を産んで良いわけではないと思う。
理由は、お前ら二人の許可は下りていたとしても、生まれてくる赤ちゃんの許可は取りようがないわけだから。
産まれてくる赤ちゃんは本当は産まれて来たくないかもしれない。
お前ら二人が良いと思っても第3者の立場である、赤ちゃんの許可は取りようがないのだから、出産はすべきではないし、する権利さえ僕たちは持ってないのである。
赤ちゃんの許可を貰えない以上、出産という行為はなんとも傲慢で、自分勝手な行為と言わざるを得ない。
・単純に子供をかわいいと思っているから。
率直に言うと、本能の仕業だ。
本能が子供や赤ちゃんをかわいいと思うように作られているのである。
単純に言うと、子供をかわいいと思っているのは、自分の感覚ではなく、本能の仕業だと考えた方が良い。
・子供を産めば自分が社会的に立派な人間に見られる思ったから。
死ねば良いと思う。
これは上の2つの理由より明らかに酷く、明らかに自己中心的な考えであることは明白である。
なぜ、お前の承認欲求のために一人の生命を生み出すことまでする必要があるのか。
死ねば良いと思う。
・単にセックスが気持ちよくて子供ができてしまった。
出来ちゃった結婚とかでよくある奴だ。
付き合っている段階でセックスをして知らぬ間に妊娠していたという奴。
その勢いで結婚せざるを得ないというなんとも理性の欠片も感じられない野生の本能だけで突っ走っている劣等類人猿ども。
こういう奴らも異論なしで死ねばいい。
もし、自分が親の短絡的な行為で平均寿命80年という長い拷問に耐えなければいけないというふうになると殺意が出るのも当たり前だと思う。
・自分の老後を見させるため
異論なしで死ねばいいと思う。
説明するまでもない。
・自分が叶えられなかった目標、夢を叶えさせるため
これも、自己中心的すぎる。
仮に子供がその夢を叶えて幸福感を感じることがあっても、それは子供の努力であって、それを押し付けた親は自分勝手と言わざるを得ない。
そして、それは子育てでもなんでもなくただの押し付けなんだよね。
・子供を産み、幸せな家庭を気づくことが立派な大人のすることなどのように、社会に洗脳されてしまっているからなのか?
多分、国はこうでも洗脳しないと少子化問題が解消しないからこのように社会の空気を作っているんだと思う。
別に、これは普通なんじゃないのかと思うかもしれないけど、中国では一人っ子政策と言ってこれと真逆の洗脳が国中でやっている。
とにかく、社会の常識、洗脳に染まっている人たちが大勢いるからこそ出産という行為はあとが絶たないんだと思う。
冷静になって考えてみれば、出産という行為は幸福より、苦労のほうが圧倒的に多いことは簡単に気づく。
この世の基本原則は「苦」。人は生きてる以上絶対に「苦」からは逃れられない
僕が反出生主義を掲げる理由として一番大きな理由は、この世の基本原則は「苦」で成り立っているからなんだよね。
「苦」が根底にある以上苦からは逃れられないし、故にそのような苦を味わわせないためにも子供を産むべきではないという考え方なんだよ。
この世は絶対苦からは逃れられないような作りをしている。
例えば、怠惰。
怠惰は最初は楽で幸せのような気持ちを味わえるが、後に必ず後悔や無駄にした時間という意味で「苦」が待っている。
逆に、努力。
努力は最初に「苦」を感じるが、その後に努力が報われ、「楽」を感じることができる。
どの道「苦」は避けられないし、釈迦でさえ「苦」から逃れきれるまで相当な修行という「苦」を経験しているのだから、この世で「苦」を感じない人はいないのが世の常なのだよね。
仮に、「苦」を感じないのであれば、そいつは釈迦のように悟りの境地に達してるか、どうしようもないくらい頭がお花畑なのかどっちかなんだよね。
バカほどこの世を天国って言うけど、そのような奴らが適当に子供ボコスカ産んでさらに地獄を作り出してるってことなんだよ。
他にも、劣等感、病気、人間関係、不運、事故、自然災害など
人間の力ではコントロールできない範疇の「苦」もたくさんあって、世の中は圧倒的に嬉しいことよりも苦しいことのほうが多いのは誰だって分かるはずなんだけど。
とにかく、誰が何と言おうとこの世は地獄だし、この先の地獄を作り出さないための最善の方法が反出生主義ってわけ。
子供を作ることは幸せだけが未来ではない。
子供を作る人間に対していつも思うんだけど、
なんでそんなに楽観的なん?
別に学歴とか、頭がいいとか関係なく、子供を産む親はバカを何個つけても良いくらい
バカバカバカバカ楽観的だと思う。
なんで、自分の子供だけ上手くいくと思ってるの?
・自分の家は経済的にも豊かだからか?
・自分の教育が正しいと思っているからなのか?
・自分の子供は才能に溢れた人間になると思っているからか?
・自分の子供だけ苦しみを感じず上手くいくと思っているからか?
このように思っているのなら傲慢以外の何物でもないと思う。
大バカ者の勘違いだと思う。
そもそも、経済的、環境的に恵まれていても、自分の子供が必ず幸せになる根拠なんてどこにもないし。
仮にその子供が「死にたい」「生まれてこなければよかった」と思ったとしたら、お前は子供の責任を取れるのかって純粋に思う。
それに、俺の例を出すとすると、俺は引きこもり、ニートだから一応親を心配させているわけなんだよ。
だから俺が引きこもっているが故に親まで不幸になっているわけ。
でも、これってよく考えてみれば分かるんだけど、俺が産まれてこなかったら、俺も苦しまずに済んだし、引きこもりの俺に親も悩まずに済んだわけだからどっちも幸せになってたんだよね。
ほんと。
親は本来幸せになるために子供を産むのに、子供を産んだから、親子どちらも不幸になるってある意味滑稽な光景だよね。
バカ以外の何物でもないし、それこそ人の命なんて取り返しのつかないことだから、ある意味、殺人じゃないかなって個人的に思ってる。
人を殺すのも取り返しのつかないものの代表例だけど、取り返しのつかないで言ったら、出産も変わらないから、出産=殺人で正解だと思う。
むしろ、殺人の痛みは一瞬なのに対し、出産は、生きるという長期的な苦しみを味わうんだから、出産のほうがタチの悪い気も個人的にするんだよね。
出産=殺人っていう考え方もあるんだなっていう程度にこれを読んでいる方は脳みその片隅にぶっこんでいただきたい。(弱者のせめてもの叫びである。
だらだらと書いているからまとめる
なんか、だらだらと書いていたら終わりそうにないので強引に強制的にまとめにはいろうと思う。
とにかく、僕が21歳にして気づいたこと、使命とでも言おうか。
それは子供を作らないことである。
ルーマニアの哲学者、シオランもこういった類のことを言っていた。
二十歳になる前、私に理解できたと誇れる唯一のことは、子供をつくってはならないということだった。両親とは、いずれも無責任な者か人殺しだ。畜生だけが子供つくりにいそしむべきだろう。同情心があれば、私たちは「人の親」にはなれまい。「人の親」、私の知るもっともむごい言葉。(『カイエ』)
— シオラン (@Cioran_Jp) September 7, 2018
人の親を痛烈に批判する直球的な言葉。
本当に胸を打たれる。
シオランからすれば両親はいずれも無責任な者か人殺しらしい。
気持ち悪い言葉だけど、すこぶる正論だと思う。
ただ、最後に言いたいのは、反出生主義は社会不適合者とか負け犬の遠吠えとかそのような次元の思想じゃないとだけは思ってもらいたい。
人間が本当に幸福な道を辿ってほしいからこそこの思想が大切なんだよ。
そもそも反出生主義の起源を辿っていくと、この世で一番最初に反出生主義を提唱してのは釈迦であって、反出生主義を批判する人は釈迦に反発する脳みそを動かさない、浅はかな人間であると言わざるを得ないと思うんだよね。
まぁ、勝手な宣言だけど、僕は子供を作りたいと思わないし、僕が子供を作らないことで、その子供が苦しまなくて済むし、この世が少しでも地獄に傾かないように弱者ながら悪あがきというか、無駄な抵抗をしていきたいと思う。
これが、俺の狂った考え。
人類なんて滅びれば良いと思う。
以上。
テレビという成功可視化装置がもたらす悪い影響
僕はテレビというものが嫌いだ。
理由はシンプルでテレビをつけると社会で言う成功者という部類の人たちが出演していて視覚化されてしまうからだ。
劣等感に苛まれる。
・顔が美形で世間で言う美男美女たち。
・スタイルが良いことでなることができるモデルという輩たち。
・人を笑わせ、楽しませることが得意な芸人といった者たち。
・コミュ力が高く、どんな仕事もこなしてしまうマルチタレント
・学歴が高く、知的な面をアピールする博識な者たち。
・とある会社の社長などのお金持ち。
・何らかの才能に優れ、その道で輝く者たち。
テレビに映っている者たちはこぞって長所、世間で賞賛されるというものを持っている。
テレビにはそういった輝いている者たちしかほとんど映っていない。
そして、それを見すぎるあまり、自分と比較してしまい劣等感に苛まれる。
「俺にはなにもない」
ということを。
ただ、僕はこういった長所、世間で評価されるという物を持った人たちを非難するつもりはない。
むしろ、どちらかというと、賞賛したい気持ちだし、尊敬している人たちもいる。
ただ、問題だと思うのは、こういった成功者、社会の勝者といった人たちをテレビを通して垂れ流しにし続けている所に問題があると思うのだ。
問題なのは、出演しているキャストではなく、テレビというメディア、媒体そのものなのだと思う。
テレビとは成功の形の洗脳装置である
テレビとは一言で言って洗脳装置である。
そしてそのテレビを通して 、今世間ではどんなものが評価されるのか、どんな物をもつべきなのか、どんなものが価値があるのか、どんな成功が良いのか、どんな思想が良いのか。
などの洗脳操作が簡単に出来る装置なのである。
そして、民衆は、このテレビを通して、あるものに価値を感じ洗脳され、それを手に入れようと邁進する。
そして、テレビでは、容姿、学歴、コミュ力、面白さ、才能、お金、運動能力、などの本当に価値があるのか分からないものを強調して民衆に押し付ける。
そして、そのテレビに踊らされ、そういったものを手に入れようと、過度な競争が国で繰り広げられその競争から脱落したものは鬱、自殺、犯罪、といったゴミみたいな問題を山積みにさせる。
テレビは良い側面もあるが、個人的には、悪い側面のほうが圧倒的に多いのではないかと思う。
テレビの価値観の押し付けは人々の生きる幅を狭め、生き方を窮屈にせざるを得ないと思う。
小学生の頃感じた、テレビの人たちのようにならないといけないという強迫感
テレビは洗脳装置と言ったけど、子供ほど洗脳されやすい生き物はいない。
ゆえに、子供でのテレビの見すぎは簡単にテレビの価値観に洗脳されてしまう。
さっきも言ったけど、テレビに映る人は容姿端麗で、頭が良く、面白く、才能に満ち溢れた人たちばっかりだ。
子供はそれを見て、「自分も将来ああいう風にならないといけないんだ。」
という無言の洗脳をされてしまう。一種の強迫観念だ。
しかし、実際問題、みんながそのような才能に満ち溢れた人物になれるわけではない。
競争社会で有る以上誰かが報われれば誰かは辛酸を舐める。
その高い地位のポジション、椅子が少ないがゆえにその少ない椅子に座れる人は限られてくるのは猿でもわかる。
そして、当たり前のようにドロップアウトする者がでてくることも猿でもわかる理論だ。
ゆえに、当たり前のように出てくるドロップアウト者を見放すのは国としては無責任で、ドロップアウト者こそ救われるべきなのである。
才能に溢れた人は国が面倒を見ずとも勝手に救われる運命にあるからだ。
誰かが、才能に溢れた人は救う。
逆に、才能に恵まれなかったものは誰からも救われない。
この格差、不平等さ、社会の歪を少しでもマシにするべきだと思う。
ドロップアウト者こそ立派に闘ったはずの人間は多いはずである。
敗者にも賞賛される権利はあるのではないだろうか。
劣等感を増幅させるテレビ
現代では、様々な社会問題がある。
僕のようなニートを初め、引きこもり、家庭内暴力、犯罪、自殺、鬱、絶望。
物質的には恵まれているはずの日本なのに自殺率は世界で13位。
これを高いか低いかどう見るか人それぞれだけど、200個国があるなかで13位はかなり上位と思う。
なぜ、これほどまでに自殺率が高いのか、自分なりに分析してみた結果、テレビもかなり影響しているのではないかという考えに至った。
簡単に言うと、テレビを見ると、劣等感を感じる人は多いと思う。
そして、その劣等感が増幅していくと、鬱などの精神病に発展する。
生きる勇気、自信を無くし「生きる意味などないんだ。自分はダメ人間なんだ。」というマイナスの自己暗示をかけ続ける。
どんどん悪化して、自殺、犯罪につながる。
思うのは、テレビを通して、成功の形を固定化してしまうのはよくないと思う。
逆に、テレビがなければ、成功の形というのも見えづらくなるので、人と変わっていてもそれを個性として受け入れられる可能性は高くなると思う。
ダメさ加減を受け入れやすくなるというわけだ。
変人でも社会が温かい目で見てくれたり、本人も個性だと思って前を向ける可能性は増えると思う。
まぁ、とにかくテレビはメリットより害悪の側面が強いと思う。
テレビはこの先もこの世からなくならないが、上手く付き合っていきたいと思っている。
まあ、とにもかくにもテレビに映っている輩はどいつもこいつも才能に溢れた奴らばっかなので進んでみる気にはならないが・・
テレビを違う名前で呼ぶとしたら劣等感増幅巨大化装置とでも言っておこうかな。
もっと、良い名前があるよって方はコメントで。
劣等感を感じるほどメンタルが崩壊しそうになる
劣等感。
なぜ、こんなものがこの世に存在するのかまったくわからない。
ある人は、劣等感があるからこそ人は成長しようとするから劣等感は良いことだ。という人もいる。
有名な人であれば、心理学者のアドラーなんかもこの類の人だ。
アドラーの書籍、「嫌われる勇気」も1300円払って、読んでみたけど、率直に言って、正論などの一般常識を並べただけのなんの参考にもならない駄作だった。
1300円返して欲しいとともに、俺の期待感を返してほしい。
書籍を読み終えた後、絶望感に支配された。
はっきり言って、アドラー心理学は未完成で幼稚な心理学であり、なぜこれほどまでに評価されているのか分からないほどの理論であった。
はっきり言って劣等感なんてないほうが良いに決まっている。
ないほうが、絶対幸せである。
アドラー心理学は解決するのが難しいどうしようもない劣等感という問題を無理やりポジティブに捉えようとした幼稚な発想の心理学なんだよね。
それで、人はその理論がどれだけ幼稚であっても、基本的にポジティブなものが好きな脳みそお花畑な奴がほとんどなので、あんな本でもヒットしてバカ売れするってことなんですよね。
逆に、あんな本がバカ売れするってことは、ほとんどの人間が劣等感を抱えていて一人で問題を解決できなかったからあんな本に縋りつくわけであって。
そういう点で、見ると本当に劣等感ってのは解決するのが難しいドラクエで言うゾーマみたいな奴なんだよね。(ドラクエあんまりやったことないけど。
とにかくだけど、この世に劣等感というゴミみたいなものを生み出した神を恨んでも恨みきれない。
突然だけど、低身長ってどうすればいいの?
ちょっと、話が変わるけど、僕の劣等感の悩みの種の話を聞いて欲しい。
興味あるかどうか知らないけど、僕は低身長が劣等感だ。
低身長と言っても170センチあるのだが、(もしかしたら170センチないかも。)
僕がそれを劣等感と感じている以上劣等感なのである。(身長が170センチないひとには本当に贅沢な悩みだし、そこは本当に申し訳ないと思っています。
身長を劣等感に持っている以上、無意識に男性とすれ違ったり、出会うと、背比べをしてしまう。
そして、身長が高い、低いで一喜一憂してしまうのだ。
僕の方が、身長が高ければ安堵するが、低いと精神的劣等感のダメージがチクチクと僕のメンタルを攻撃する。
精神的劣等感のダメージがどんどん蓄積されていくわけだ。
そして、一定以上の精神的ダメージが貯まると、鬱、落ち込み、無気力、自己否定、自信喪失と言った四天王ならぬ自殺警報五天王が襲ってくる。
こいつらが襲ってきたらそれをバネに努力するどころか、生きるのが嫌になって生活自体を放棄したくなるので、怠惰の極みに走ってしまう。
死にたくなるし、存在意義自体わからなくなる。
ほんとうに劣等感が存在する意味が分からない。特に身長はもう伸びないし。
どうやって、この劣等感を克服したらいいのか分からない。
もうかれこれ10年近く悩んでいる。
そして、こういう精神的ダメージを受けるたびにこの世は地獄であるということを再認識するのである。
とにかく、劣等感にへこたれない強いメンタルを持ちたい。
劣等感に負けない、鋼のようなメンタルを持ちたい。
鉄の女サッチャーのような人になりたい。
釈迦は
我将に、汝の軍衆を破るべし
第一軍 貪り 第二軍 うれい
第三軍 飢渇 第四軍 愛着
第五軍 なまけ 第六軍 おそれ
第七軍 疑い 第八軍 剛情
第九軍 名利 第十軍 驕慢
このような強い気持ちを持って生きていきたい。
劣等感で精神的ダメージのはけ口をどこに向けて良いのか分からなかったのでブログにでも書いて吐き出してみようと思った。
劣等感ほど、めんどくさく、対処しづらい相手はいないとここ数年、長く痛感している。
ただの愚痴記事。
ただの鬱憤を晴らすだけの回。
書くのも精神的にも疲れた。寝る。おやすみ。
【スマホゲーム紹介】会社バックレる!を紹介する
数々のバイト先をバックレてきた俺が面白いゲームを発見したのでそのスマホゲームを紹介してみようと思う。
その名は・・
「会社バックレる!」
ものすごいシンプルな名前のゲームだ。
早速やってみよう。
会社員だろうか・・
スーツ姿の男が禿げた上司のような男に追われている・・
めちゃくちゃ手抜き感満載なオープニングがお出迎えしてくれた。
まずは、ステージ1からやってみよう。
会社のオフィスのようだ。
会社員という立場なのにも関わらず、バックレを試みるとはなんたる勇者。そしてなんたるブラック企業。
会社員がバックレるとなると企業側にはかなりのダメージを与えられるからね。
これはかなりの上級バックラーだ。
バイトを数件バックレた私なんて足元にも及ばない。
おっと。話が逸れかけてた。話を戻す。
このゲームはここから脱走、つまりバックレることに成功すればゲームクリアとなる。
様々な場所をタップしていきバックレる方法を探るというわけだ。
そして、この上司らしき人物をタップすると・・
禿げた上司にとっ捕まえられ、バックレ失敗となる。
と禿げた上司が良く分からないことを言っている。
とにかく、禿げた頭をどうにかしろ。とでも言いたい。
このように、カギなどのアイテムがそこら中にちらばっているので集めていく。
そして集めたアイテムでどのようにバックレるか探っていくゲームだ。
カギでドアのロックを解除してバックレ成功だ。
ここでも上司が
「うちがブラックなことはみんなに内緒な!」と。
とにかく、禿げた頭をどうにかしろ。
他にも、会社の中なのにネッシーが登場してきたりぶっとんだ良く分からないゲームだ。
ちなみに、下のかつらは上司のかつらだ。
とにかく、バックレ経験者は勿論、これからバックレする人たちのシュミレーションにもなると思うので、やってみてはどうだろうか。
S級バックラーを目指そうではないか。
弱者のせめてもの会社への反乱だ。
バックレこそダメ人間の勲章である。(適当
んじゃね。