きつねこブログ

こんにちは。ヒキニート時代にこのブログを開設しました。のんびり働いて、適当に生きる

反出生主義に反論されたので、改めて反出生の説明と謝罪とか・・

こんにちは。きつねこです。

なんか、僕のはてなブログの読者で反出生主義仲間かな?って思っていた人が僕の反出生主義のページについて反論してきたから書いていく。

 

 

kait39.hatenablog.com

まぁ、感想って書いているけど、ほぼ反論みたいな内容だったからこちらも改めて反出生主義の理論を分かりやすくまとめていきたいと思う。

それと、僕も反出生主義に個人的感情を載せすぎている部分もあったからそこま前もって謝っておきたい。

 

改めて反出生主義の理論を説明する。

簡単に反出生主義の理論を説明すると、

「生まれたくなかった」「死にたい」「生まれない方が幸せだ」という主義の思想である。

別にこの主義・思想が特別だとは、思わないと思う。

誰もが一度は死にたいや、死んだ方がマシだと考えた経験は持っている方の方が多数だからだ。

要するに、反出生主義は「死ぬ権利」もしくは「生まれない権利」を主張しているわけだ。

要はどちらでもではなく、どちらかが達成できればいいわけだから、安楽死施設が出来れば、反出生主義を言う者は地球上からいなくなるだろう。

別にこれはおかしい話ではないはずだ。

この世では「生きたい権利」「子供を産む・産みたい権利」めちゃくちゃ尊重されていのに、「死ぬ権利」は一切尊重されていない。むしろ見て見ぬふりで黙殺されているわけだ。

病気になったら、病院に行けば治療してくれるし、子供を産みたいと思えば資格や許可を得ずに誰でも手軽に子供を産めるわけだからだ。

だがしかし、死ぬという行為は手軽にできるだろうか?自殺とは簡単だろうか?

手軽にできると言い放つ奴はシンプルに言って鬼で人間の慈悲など一切ない。

安らかに死ねるように。死ぬ権利を保障されるように安楽死施設はない方がおかしいのだ。

この時点で反出生主義と出生主義は議論の余地もないのだが、それでも反論してくる方がいるので、僕は心で「鬼かよ・・」と思うしかできない。

「生まれない権利」「死ぬ権利」を保証してくれない時点で、出生主義側が反論してくるのは大きな筋違いだと思う。

それは、反出生主義を押し付けているというよりも、出生を押し付けているわけだから、どちらの意見も尊重されてしかるべきなのに、安楽死施設が出来ない時点で反論してくる立場ではないと思う。

 

 

まとめ

まぁ、僕も反出生主義について個人の感情を乗せすぎた感は否めないのでそこは謝りたいと思います。

だけど、反出生主義に個人の意見を乗せてしまうのは誰にだっれあるわけで、そもそも論から言うと、どんな主義にも最初に個人の感想から入り、それを客観的ファクトで理論を構築していくわけなんですけどね。

それについては、出生主義にも子供を産みたい!などの個人の感想はあるのですが、客観的ファクトが「この世に生まれてくる意味がある」「生きるのは素晴らしい」「苦労とは修行だ!」などと、何も客観的ファクトになっておらず、宗教的、スピリチュアル的理論を展開してくるだけなので、納得できないわけです。

だけど、反出生主義は、釈迦が生きるとは生老病死と言ったように確実に苦しみはあるわけで。

その苦痛、苦しさなどの客観的ファクトがある時点で反出生主義は覆せないはずなんです。

もし、反出生主義を覆す人が現れるのであれば、この世に生きていて、何も苦痛を感じない、もはや釈迦を超えた存在の人間が誕生した時でしょうね。

仮に誕生したとしても全人類がそのようなスーパー人間のような生き方ができるとは限りませんし、ていうか無理だと思いますね。

出生主義者は個人の欲望や、子供を産みたい本能的欲求に行動を委ねているとしか僕は見えないんです。

何度も言いますが、反出生主義が間違った思想とでも言いたいのであれば、この世が生まれてくるだけの意味や、人類が存続するだけの意味、苦しみなど存在しない、などといった客観的ファクトを用意してください。

宗教とかスピリチュアルとか個人的感想とかうんざりです。聞き飽きました。