「働きたくない」ではなくて、「生きていたくない」
こんにちは。きつねこです。
引きこもっていた当時は、「働きたくね~な~。働かずに生活できたらどれだけ幸せだろうか・・」と考えていたわたくし。
しかし、引きこもり生活を続けていればそりゃお金は尽きるし、いつまでも親に甘えていれば、親からの「そろそろ働け、クソ息子!」と言わんばかりの強烈な無言のプレッシャーもあり。
そして、「どうせ生きるなら引きこもっていても暇だし、少しくらい働いたら退屈しのぎにもなるしお小遣いにもなる」という少しはこの世界に生きる上で建設的な思考から就職活動。
最初はコミュ障が爆発してしまいバックレも当たり前のようにしましたが、徐々にこの世界の下界とやら人間社会というものに慣れ、今では「引きこもっていたように見えない!」言われるまでに。
まだまだ、バイトという身分ながら長時間働く体力もつき、職場での地位を認めてもらい、「きつねこくんがいないと回らないよ~」と言われるまでに。
お小遣いも一人で生きるには十分あり、そのお小遣いで本を買ったり、コンビニで適当に飯を買い、貯金も毎月10万円ほど貯まっていて、わたし的には成長している実感があり幸福感を感じている。
ただ、やはり「働く行為」を辞めたい気持ちもあるっちゃある。
職場の老害がうざい時や、そもそもの時給の低さ、作業のつまらなさ。
シンプルに「今日もバイトか・・・寝ていたい・・・」という面倒くささ。
でもバイトが休みであったら「今日はバイト休みか・・・嬉しいけど、休みって何して休むんだっけ?どうすれば休めるんだっけ?時間が有り余り過ぎて何したら良いかわからないんだが・・・・休みの日が苦痛ってどういう状況なんや?」という休みも休みで苦痛という・・・
考えてみると、結論としては「働きたくない」という感情は間違いであったと思う。
突き詰めてみると「働きたくない」ではなくて、「生きていたくない」というのが本心なのだとふと気づいたのだ。
考えてみると、「働く行為」というのは最高ではないか。(労働を絶対的に推奨しているわけではない)
働く行為の過程で、報酬が発生し、人間関係、スキル、体力、経験”この世界で言う所の成長”を経験でき、わたしのように圧倒的退屈を持て余していた引きこもりからしても、大幅な退屈の時間つぶしにもなる。お小遣いが貰える。
なので、最近はこう言うと誤解されるかもしれないが、「働くという行為」は楽しいと感じている。
でも、実際問題「働くという行為」には辛い側面もある。
先ほども言ったように、時間を拘束される、嫌でも責任を持たされる、人間関係の煩わしさ、シンプルに面倒くささ・・・
だからと言って、「働く行為」を辞めれば、また退屈極まりない地獄の引きこもり生活に戻ってしまうだろう・・・
それはそれで地獄であり、
であるならば、働いてた方がマシだという結論なのである。
要するに、この世界は”退屈”という名の”苦しみ”が溢れている。
寿命が延びれば延びるほど、退屈という苦痛は襲ってくる。
寿命が延びれば延びるほど、退屈が脳内を蝕んでいく。
退屈が多くなればなるほど、不安や雑念が脳内を覆い隠す。
結局の所、わたしにとっては、”労働”とは生きるためと言うよりも「退屈な時間をどれだけ感じずに済むか」という話であり、「未来への不安をどれだけ考えないようにするか」という所に落ち着く。
要するに、生まれてきてしまった”苦しみの時間を考えないように働くという行為を通じて行う瞑想みたいなもの”かなと思う。
幸せの獲得というより苦痛の消去なわけだ。
結局の所、”働く”、”働かない”に限らず2つのどの道を取っても幸福にはつながらないなと感じたわけ。
要は、「生まれないのが、最高の幸せ」分からない人は分からないと思うが。
結論としては、「生きていたくない」。即ち「死にたい」という感情が一番の幸福なんだろうけど、簡単に死ねないし、死にたいと言い続けていても幸福感は下がる一方だし、この世界では何も生産的ではない、若しくは「死にたいなら死ね」と見ず知らずの人が言ってくる世界みたいなので、「じゃあ働いて、少しでも幸せと言うか、苦痛を紛らわせると言うかそんな感じでこの世界の幸福とやらを思える時間を増やそうか。」という後ろ向きなのか前向きなのか自分でも意味わからない脳内を言語化してみた。
とりあえず、わたしは
「働きたくない」じゃなくて、「生きていたくなかったんだ」と今日分かった。
バイバイ。