「生まれてきたことが苦しいあなたに」 哲学者・異端者シオランへの感想
こんにちは。きつねこです。
半年以上前に購入した書籍。「生まれてきたことが苦しいあなたに」という本の感想を書いていきたいと思う。
著者は大谷崇氏というルーマニア思想研究者というかなり異色の肩書を持つ方が書いた本である。
ルーマニア思想というとかなりマニアックなジャンルになると思うが、かくいうこの本の題材のルーマニア出身のエミール・シオランの思想・哲学を扱っているわけだからこの人が書くべき題材であるわけだ。
大谷氏も学生時代にシオランに近い臭いを感じたようで、そこからシオランの考え方を探求してみようと思ったらしい。
実際に大谷氏は10年以上前の学生時代からシオランの書籍を読み込んでいたみたいで、2018年にはルーマニアに留学までしているほどの良い意味での変態の方が書いた本だと思っていただければ良いと思う。
私自身4、5回ほど読んだわけだけど、シオラン世界観が強すぎるのもあり、内容の解釈や理解が足りない点もあるかもしれにという点は前もって言っておきたい。
エミール・シオランについて
この記事を読んでいただいている方ならだいたい知っているかもしれないけど。
そもそもだけど、エミール・シオラン(以下:シオラン):という人物について少し触れたいと思う。
多分、日本では殆ど馴染みがなしい、実際のところ世界的にもそこまで知られている作家ではないと思う。
哲学者でもニーチェやソクラテスなどという名前だけは聞いたことある方も多いと思うけど、シオランに関しては初耳と言う方も多いのではないだろうか。
実際に私もシオランを知ったのは反出生主義という思想に気づき始めてからネットを漁っていた時に知ったのを思い出す。
反出生主義的な考えを持っていた過去の先人たちの中で、理由は分からないけど、インターネット上でトップに出てくるのはシオランという印象だ。
近頃、「反出生主義」というワードで検索する人も増えたみたいで、そのきっかけでシオランを知った人も多いんじゃないかな。
シオランの根本的思考・価値観
シオランの根本的思考・価値観を一言で端的に表すなら「ペシミスト」だ。悲観主義・厭世主義とも言う。
ペシミストとは、この世界は悪と悲惨に満ちたものだという人生観、と端的に説明できる。
一般的にネガティブ思想と混合されがちだけど、ペシミストは(特に哲学者などは)客観的事実を根拠に理論を構築し、解釈を決定づけているわけで一般的に言われるネガティブとはなんか違うとも個人的感情だけど思ってしまうのだけども。
それと同時にシオランは「ニヒリスト」虚無主義・虚無主義者でもある。
ニヒリズムにも様々な解釈があるのだけれど、一般的には「生きる意味や価値など一切ない」という考え方が一般的だと思う。
ニヒリズムに関しては、批判し合っていたシオランとニーチェがどちらも推奨していた考え方でどちらもそれぞれも考え方を進め昇華させている点も面白いと思う。
また、ニーチェもシオランも言っていることと行っていることが矛盾している言動不一致な点も面白い部分でもある。(例えば「自殺」という考えを取ってみても言っていることと行ったことはそれぞれ逆の行動を取っている。)
ニーチェなどのほかの哲学や哲学者にも興味があるので時間を作って読んでみたい。
シオランの話に戻すけど。
すべてにおいてではないけど、シオランの考え方の根底には、ペシミズムとニヒリズムが同居しており、物事の解釈一つ一つにその価値観が垣間見えることが分かると思う。
シオランの思想 「怠惰」
この本の第1章としてシオランの「怠惰」についての考え方について触れられている。
労働や何か行為に移すことについてのシオランなりの価値観がまとめられている。
シオランから言わしてみれば「怠惰」は「高貴な悪徳」を含んだ行為らしい。それについても私なりの解釈を含みながら述べたいと思う。
「怠惰」という題材が第1章なわけだが、というのも、シオラン自身がとてつもないほど怠惰であるわけだからだ。
働きたくないというのは至極当然で、シオランの場合ベッドから起き上がる行為だけでも大きなエネルギーを要する、的な言葉も残しているほどだからである。
もう駄目だ。こうして時間を無駄にしていいのか。午前中、ほとんど昼近くになって、例によってまだ仕事に取りかかっていないのに気づき、あやうく落涙するところだった
『カイエ』
だけど、この「怠惰」という点においてはシオランは生涯を通して立派に自らのフィロソフィーを体現したと言えると思う。
実際にシオランは84年の生涯を歩んだのだが、働いたのは高校教師の1年間のみ。あとは妻や周りの人間に寄生し続けて84年の人生を生き遂げたわけだ。
本はだいたい4年スパンで定期的に出版していたみたいだから、全く働いていないわけではないんだけど、それでも売れない作品が殆どだったから収入は雀の涙ほどだったみたい。
本の収入は多少あるとはいえ、84年の生涯を1年間の労働で終えたのはまさに有言実行。自身の哲学を体現したというわけである。
だけど、そもそも論として、なぜシオランは”怠惰”なのか?
それにはいくつか理由はあるんだけど、それについて私なりの解釈含め書こうと思う。
”怠惰”の理由 ①シオラン自身が怠惰
これを言っちゃ、そんな理由かよ!と面白みもないんだけど、そもそもシオランと言う人間そのものが怠惰だったという説が濃厚だと思う。
シオランの性格のデフォルト設定がそもそも怠惰であったと。
次もシオランが怠惰である違う理由を述べるけど、納得出来る部分もあるけど言い訳にも多少聞こえる節もあると私としては感じてしまった(笑)
”怠惰”の理由 ②働かないというのは社会に対してもせめてもの抵抗
シオランは「労働」をかなり嫌悪している。
シオランの労働や社会的風潮に対する価値観はこの言葉に集約されると思う。
社会と言うものが出来て以来、それから逃れようとする者は迫害され、嘲笑された。君がひとつの生業を、名前の下につける肩書を、君の虚無の上に捺す印象を持ちさえすれば、あとは何をしようと構わないのだ。《俺は何もやりたくない》などと叫ぶ大胆さは、誰一人持ち合わせていない。世間の人はあらゆる行為から解放された精神に対してより、人殺しに対するほうが寛大である。 『崩壊概論』256貢
社会と言うのは現代でもあるように、義務教育や労働の義務、という点で良いと思う。
次に、君が何か職業を持つだけで社会は許してくれる。という感じのことが書かれている。
シオランは社会を酷く嫌悪していた。嫌悪していた理由についてはこの本の第3章あたりに書かれていて納得できるのだけど、その嫌悪している社会に同調したくなかったというのもあるのかもしれない。あくまで個人的推測なのだけれども。
嫌悪していた社会へのささやかながらの抵抗が”怠惰”という形だったとも推測できる。
”怠惰”の理由 ③怠惰は悪を侵さない
シオランが怠惰である理由としてこれが一番納得できたし、面白い角度から怠惰を解釈するな、とも思った。
というのも、一からシオランの哲学を説明すると長くなるのだが、シオランは”悪はすべての行為から発生する”という感じの考えを持っている。
シオランからすると行動するから悪が発生するので合って行動しなければ悪は発生しない。
勿論、働かなければ社会に迷惑をかけている!それこそ悪だ!という意見をする人もいるが、そもそもシオランからすれば社会そのものが悪そのものであると説く。
社会そのものがなぜ悪なのかもこの本の第3章辺りで触れられているんだけど、行動の根源は悪が必ず存在すると。勿論、シオランの本の創作活動にも悪は存在する。シオラン自身にも悪は存在する。
後に説明するけど、行動とは「悪徳」であると。
要は、シオランは悪を唯一侵さない怠惰はとても魅力的だと述べている。
むしろ、みな怠惰になれと。
怠惰は悪を侵さない___これがシオランが怠惰は「高貴な悪徳」だと言い切る所以である。
あと、なぜ怠惰がなぜ人殺しよりも非難を浴びるのか?。
これについては”人殺し”という言葉を使って対比的な表現をシオラン自身が使いたかったというのもあると思うけど、「人は生き生きしていないものを非難する」という点を強調したかったのだと思う。
人殺しも放火も極悪非道な行動には間違いないが、確実に言えることは”怠惰”よりも「生き生きしている」という点だと思う。
人殺しも放火も活動的だ。エネルギーの向ける方向性はどうあれエネルギーは存分に感じられる。エネルギーがないと人殺しも放火も実行できない。
逆に”怠惰という行為”はエネルギーが感じられない。「生き生き」としていないのだ。
要は社会は行動の内容もだが、”エネルギーがあるかないか”という点に非常に過敏で批難の矛先を向ける傾向があるともシオランは語っている。
こういうエネルギーのない人間は理解されず許容されない。という意味だ。
あくまでシオランの解釈によるということは言うまでもないけど。
生きるというのは「悪」で出来ている。
先ほど、行動は”悪”を生み出す。というなことを書いた。
というのも、シオランは行動の根源を辿っていくと”悪”に辿り着く。と言っている。
その考えが表れている言葉を引用させてもらう。
本当に生きるということは、他者を拒絶することなのです。他者を受け入れるためには断念するすべを知らねばならず、自分の本性をむりやりに曲げるすべを、おのれ自身の性向に逆らって行為するすべを、”衰弱する”すべを知らねばなりません。
『歴史とユートピア』第11貢
不正がこの社会には満ち溢れている、と言ってみてもとても言い足りはしますまい。
この社会というのは実は、不正の精華というべきものなのです。
『歴史とユートピア』21貢
分かりにくい文章もあるけど、出来るだけ噛み砕いて説明したいと思う。
人の行動の根源は「悪」である
多くの方が義務教育の段階で歴史の授業を受けたと思うが、人間同士の対立がかなり占めていたと思う。
歴史を辿ってみると不正や権力、対立、残忍な事件や戦争など悲劇と呼ばれる惨状の繰り返しなのは事実としてあると思う。
このことからも人間の行動の原動力は「悪」なのかな?と疑いは立てられるが、「正義」と思われる歴史にも”悪”は存在する。
というのも、”正義”と見られる戦争や争いを取ってしてもそれは、何かを嫌悪・憎悪し対立することには変わりない。
何かと対立するということは、その対象を嫌悪・憎悪しているという意味でもあるからだ。
この嫌悪・憎悪と言う感情が行動には不可欠だとシオランは説く。
人は何かに対立し嫌悪と憎悪を持ったとき強くエネルギーが湧く。
言葉を変えると、この世界で生きるためには”悪徳”を持てと。
シオランが言う、悪徳とは、悪意・敵意・怨恨・憎悪・嫉妬・強欲などを指す。
シオランからすると全ての行動はこの悪徳から発生しているというわけだ。
むしろ、悪徳はとてもエネルギーが強い。
誰もが思い当たると思うけど、「見返したい!」「悔しい!」という感情はとても行動に突き動かしてくれるというのは経験があると思う。
でもこれも立派な悪徳である。悪徳と言う名のエネルギーが人生を前に進めてくれる。
今でいう”自己実現”という呼び方は聞こえは良いが、目標を達成して承認されたい、お金を得たいという強欲の一種だとも思うし、あとで触れるが、自己実現というのは他者の人生の侵害でもあるわけで、シオランからすると賞賛出来る生き方ではないわけだ。
悪徳を持って行動を起こし人生を生きてしまう以上、人を傷つけてしまうし、人災が発生してしまう。
では、どうすれば”善良”な人間になることが出来るのであろうか?
次の項目で述べたいと思う。
加害と被害
過去に私の反出生主義のページで、「この世界には加害者と被害者しかいない」というようなことを書いたのを思い出した。
この本を読んで似たような考えやさらに深い考えを知れたのも良かったかなと。
というのも、シオランはこのような言葉を残している。
人間の素質の最良の部分をだめにし、肉体を貧血の掟に屈服せしめ、精神を忘却の規律に服従せしめなければ、円熟することはできず、善良になることはできない。
『歴史とユートピア』95貢
と述べているが、正直これだけでは分かりにくい。
だけど、この本で大谷氏がこの文章の解釈や補足を分かりやすく説明している文章があるので、そちらの方が分かりやすいと思うので引用させてもらう。
つまりは現世における成功と勝利をあきらめるということだ。他人を出し抜いたり、他人からの承認を得ようとして競争したり、他人を屈服させる快感を味わったり、自分の何らかの才能や意志を満足させることを放棄するということだ。つまり対立するのをやめることだ。そんなことはほとんど不可能だと思う人もいるだろう。不可能だからこそ、相変わらず私たちは傷つけ傷つけられたりして、もがき続けているのだ。
『生まれてきたことが苦しいあなたに』 本文引用
この文章にとても感銘を受けた。
私がなんとなしに言語化できなかった感覚の思考を端的に表現してくれている文章である。
私はシオランは人を傷つけたくなければこのようにせよ!とシオランなりの答えを3択出しているとこの本を読んで個人的に解釈した。
まず一つ目は先ほども言ったように『怠惰』が挙げられる。
行動は”悪”がモチベーションとして発生する以上、たとえそれが正義の名の元に行われた(若しくは思っていた)としても、何かを対立し憎悪・嫌悪を燃やし行動へ昇華させている事実には変わらない。
結局、正義などと言う言葉はそれぞれの思惑があるだけど、それぞれの欲望や承認などを欲しいが故に行われるわけだ。
2つ目は『自殺』を挙げていると個人的に解釈している。
シオランは”自殺”を他人への加害を防止できるからという意味で推奨しているわけではないんだけどれも、考えて見れば自殺は死んでしまえば何も行動に起こせない。
即ち、先ほどの”怠惰”の特徴と似るどころかそれ以上の効果を発揮するのではないか?と私はそのように解釈した。
シオランの自殺観については、今回はそこまで触れないけど、シオランは”自殺は望んで生まれてきたわけではない人生へのせめてもの抵抗”という感じの言葉を残しており、いかにもペシミストらしいなという感じである。
3つ目に挙げているのが、最近有名な『反出生主義』である。
反出生主義はすぐに人への加害を0にできるわけではない。
というのも私も反出生支持者の立場なのだけれども、私も生きていく以上、行動はするし、行動している以上人と対立すると思うし、人への加害はしてしまうであろうと思う。
そもそも現に反出生主義という思想が一般的な子供を産むという思考が当たり前の社会的価値観に対立的立場を取っているわけだし、反出生主義も親という存在や子供を産もうか考えている人に対して十分な加害要素になるわけだからだ。
だから、いくら倫理的な思想だとしてもそれに対立する思想がある限り、対立してしまうし加害してしまう。
シオランの言ったいように「生きるという行為は悪が根源であり加害は避けられない」的な言葉をここでも思い出してしまう。
だから、思想が何であれ、人は生きていく以上加害は避けられないのだ。
だが、じゃあその加害の連鎖を止められないのか?という問いに反出生主義は十分効果的だ。
私も長く生きても100歳までとして、私が長生きして死んでも22世紀で死んでしまうだろう。
仮に、今の全人類が反出生主義を実践したら、100年後の人類は生きていないわけだから当然のように加害は発生しない。
まぁ、ここで反出生主義の話を長々と延々と書くのは辞めようと思う。
このブログにも散々書いているし、宗教染みて気持ち悪いなどと嘲笑されるのが目に見えている。
だけど、現代技術を考えれば自殺幇助技術は高まっており、自死制度などを設けるのも加害を減らせる手段なのかなとも思う。
安楽死などもそれぞれの利用する意図はともかくあって悪いものではないとも思うのだが。
「人生はむなしい」という薬
最後に、シオランの好きな考え方として「人生はむなしい」という考え方について個人的な感想を付けて述べたいと思う。
生きるどんな理由もなければ、まして死ぬどんな理由もない、齢を重ねるにつれて、私はますますそう思う。だから根拠などまるでなしに生き、そして死のうではないか
『カイエ』558貢
あとセネカの言葉も好きだ。
「人生はそもそも全部悲しいのだから、別に何か悲しいことがあっても悲しむ必要はない」
悲観的だから前向きになれる
上記の言葉に挙げたように、面白い話で、悲観的に考えることは人生を前向きに生きる気付きを得られる効用もある。
上記のセネカの言葉などはとても象徴的でこの世界はすべて悲しいという認識を前提に変えてしまえば何が起きても動じない、悲しまない、ような精神状態が作られるわけだ。
実際に私も長期的に引きこもりを経験したのだが、長期的に苦痛に慣れると、本当に人生は地獄だなと認識し始める。
地獄に慣れるとどうなるか? 少しの些細な幸せにも気づくことが出来るようになる。
人は健康である時に自分が健康であると認識しない。病気になった時、初めてそのとき健康であったんだ。恵まれていたんだ。と認識する。
不健康に慣れると少しの健康的な回復でも気づきが得られ幸福感が得られるという意味でもある。
じゃあ、不健康になれば健康に気付けるというのか?という意味でもない。
要するに、この世界はすべて不幸からスタートしていると考えてみても良い。地獄だと認識すれば、どんな苦難に会おうともある程度分かっていたような顔で過ごすことが出来る。
要は人生に対する期待のハードルを低くしてしまえばしまうほど不幸になりようもない。という理論なわけである。
人生に期待するから不幸になる。
この世界は地獄であるという認識に立てばどんな場面に出くわそうとある意味わかっていたような顔で過ごすことが出来ると思う。
まとめ
シオランと言う人物をあまり深く知らなかったので軽い感じで興味本位で手に取ってみた本だが、実際に読み終えた感想としてはとても感動している。
正直、私自身シオランの考え方を完全に理解出来たという自信はないが、自分の中で深く納得できるものは確かにあった。
シオランの考え方はパッと見はネガティブな印象が色濃い。というよりネガティブ臭しかしない。
やれ怠惰だ、悪徳だ、自殺だ、むなしいだ、虚無だ、
うつ病患者が頻繁に考えそうな言葉のオンパレードなわけだけど、私はこの本を読んでもの凄くポジティブな感情を抱いた。救われた気がした。
勿論、私の考え方が一般的でないことは重々承知だし頭のおかしい人間だというのも十分自覚している。
でもなんだろうか。
人生はむなしい。という感情でここまで綺麗な気持ちにさせてくれる本に、私は初めて出合った。